綾瀬新撰組 第1話 伊藤谷橋

1.

小菅御殿裏にある銭座で働いている次郎吉は、銭座から自宅がある五兵衛新田への帰り道で、綾瀬川にかかる伊藤谷橋のたもとに大きな口をひん曲げて橋の欄干に両手をついてぼんやりと綾瀬川を眺めている男を見た。総髪を綺麗に束ね、身に着けている着物や刀から受ける男の印象は、ひとかどの侍のようであった。男の左右には屈強そうな武士が二人立っている。陽が沈むのが遅くなったものの辺りは既に薄暗くなっている。田圃には空から滴り落ちた血のような真っ赤な夕陽が写りこんで不気味である。暮六つ逢魔が時である。次郎吉には彼らが閻魔大王と地獄の門番のように見えて震えた。

次郎吉は武士たちを見て思い当たった。(最近、金子様の屋敷にやって来た将軍さまの家来たちだ…。それにしてもおっかねぇ顔してやがる)次郎吉はビクビクしながら男たちの後ろを通り過ぎようとすると、口の大きな男が声をかけてきた。

「あ、おいおい、こら小僧、おいおい」(ちぇっ、俺のことかな?おっかないから聞こえないフリをしてやろう。立ち止まったら最後、いきなり刀を抜かれてバッサリと斬り殺されるかも知れない)

「おいこらおいおい、小僧、お前に言っているのだ」(やっぱり、おいらか? ここで斬り殺されてしまうのなら、もっと親孝行しておくべきだった)と覚悟を決めた次郎吉。

「私でございますか?」

「お前以外、ここを歩く者はおらんではないか?」

「あ、それは失礼いたしました。で、何の用でございましょう?」

「うむ」と唸るとニヤリと笑う。初めの印象とは違って人の良さそうな笑顔だ。

「何でございましょう?」

「お前、街道の方からやって来ただろう?」街道とは水戸街道のことだ。

「へぇ」

「街道の向こうに何か怪しいモノを見なかったか?」

「怪しいモノですか? へぇ、何も見ませんでした」

「うむ、お前、水戸橋の化け物を知っているか?」水戸橋とは伊藤谷橋に同じく綾瀬川に架かる橋のことで、伊藤谷橋から少し離れた水戸街道上にある。化け物とは水戸光圀が退治したという水戸橋あたりに住みついていた化け物のことだが、かなり大昔の話だ。

(この大口男、何を言っているのだろう?水戸橋の化け物など迷信じゃないか?)

「とんでもない、そんな恐ろしいもの見たことなどございませんよ」

「さようか、先ほど水戸橋に化け物が出たと新田の百姓が我々の屋敷にやってきたのだ」

「これは、伊藤谷橋でございますが」

「承知している。水戸橋には先に二人を調べに行かせておる。お前が水戸橋の方から歩いてきたので何か知っているのではないかと思ったのだ」

「はあ、私は銭座で働いている者です。銭座は水戸橋近くではありますが、特に騒ぎはございませんでしたが」

「さようか」大口男は、顔だけ水戸橋の方を向けて残念そうに呟いた。次郎吉はじれったくなり、「もう、失礼してもよろしいでしょうか?」と言うと、大口男は「うむ、よかろう」と頷いてまた綾瀬川に顔を向けた。その間、一言も発しなかった大口男の左右の男二人は無言のままニヤニヤしながら次郎吉を見おくっている。

2.

翌日の朝のこと、次郎吉はいつものように銭座に出かけた。昨夜、口の大きな武士たちと出会った伊藤谷橋に差し掛かると、橋の上に2人の男が立っていた。昨夜、口の大きな男と一緒にいた男たちのようだ。一晩中、橋の上に立っていたのだろうか。男の1人が次郎吉を見つけるとニヤリと笑いながら声をかけてきた。

「小僧、昨夜は悪かったな」

「小僧じゃありません、私は16です」

「おお、こりゃあすまん、これから銭座に行くのかい?」

「はい、仕事ですから」

「ご苦労だな、気をつけて行くんだぞ」

「ありがとうございます、では…」

「お、小僧、いや、お前、名はなんと言うんだ?」

「五兵衛新田の次郎吉と申します」

「ほう、俺たちは金子さんの屋敷に世話になっている新撰組の相馬と野村だ。近くに住んでるんだな…よろしくな」

(ぷっ、世話にだって? 京都から尻尾を巻いて逃げてきて、ついには江戸にもいられなくなってここまで逃げてきて、金子様に匿ってもらってるようなもんじゃねえか。それにしても、昨日のおっかねぇ印象とは随分違うなぁ)

次郎吉には彼らが人の良い男たちに見えた。

「相馬様と野村様ですね、承知いたしました、それでは失礼いたします」そう言うと次郎吉は彼らを前を通り抜けて銭座に向かって歩いた。

「あの小僧、かわいいやつだなぁ」相馬が去って行く次郎吉を目で追いながら呟く。

「相馬様、その気があったんですか?」と野村が笑った。

「くだらねぇことを言いやがる、俺にもあのくれぇの弟がいたのさ」

「さようでございますか? 安堵いたしました」

「ふふ、馬鹿野郎め。ところで、そろそろ交代の時間だ。おお、来た来た、さ、屋敷に戻ろう」

その時、五兵衛新田の方から3人の男たちがゆっくりと歩いてくる。

相馬というのは相馬主計であり、常陸・笠間藩士の家に生まれ、幕府の歩兵募集に応じて第二次長州征伐に参加、征伐軍解散後に新撰組に入隊した。鳥羽伏見の戦いを経て江戸に戻り、甲陽鎮撫隊では局長付組頭となった。

野村というのは野村利三郎のことで、美濃の出身。今に残る新撰組名簿では、この五兵衛新田駐屯時のものから彼の名前が出てくる。甲府鎮撫に失敗し、隊士が少なくなったために江戸で隊士募集の際に入隊したと思われる。

Temple in erase the dark clouds

50歳を超えて成り行きで独立。独自に文化芸術に生きようと決意したがあっという間に挫折。世の中そんなに甘い奴には甘いけれど、甘くない奴には甘くない。さてさて困った、念仏だ、南無阿弥陀仏…

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